「羽後の子ども」第31集より
- 晴夫 沼澤
- 1 日前
- 読了時間: 2分
「羽後の子ども」第31集(2000年度)より、いつものように詩2編を紹介します。
世紀を跨いだ年度です。
2000年4月に本町は過疎市町村の指定を受けています。行政組織の改編が行われ、介護保険制度も始まりました。
マラソンに出かけた
仙道小3年
マラソンに出かけた。
先生といっしょにでかけた。
お寺までのたんぼ道を、
ぼくはいっしょうけんめい走った。
お寺につくと、先生が、
イナゴを見つけた。
とても大きなイナゴだった。
イナゴがぼくをじろっとにらんでいた。
大きな目で、
人間みたいな目で、
にらんでいた。
おこられているみたいで、こわかった。
いっしゅんとびつかれると思って、
ぼくは、にげた。
「ぼく、さきにいってます。」
といって、にげた。
力いっぱいにげた。
足が、どんどん進む。
気がついたら、ゴールしていた。
◆ある意味でユーモラスなこの詩は、マラソンの行き帰りの心持ちの違いが想像できる。ごく普通に走ってついた先で、見つけた一匹の大きなイナゴ。本当は強者である人間が、一匹の迫力におされてしまって逃げ帰る。どちらにも命がある。

昼下がりの教室
羽後中3年
昼下がりの教室
もりあがる会話
「強いね」
そんな言葉をかける友達に
ひどくおびえる
強がる自分
「気づいて」と叫ぶ私の心
「わかる、わかる」
友達からの軽い言葉
―わかってない---
そんなに単純じゃない
自分でも複雑すぎてわからない
人がくれる安易な評価は偽り
「自分はいつからおくびょうになったのだろう」
最近そんなことを思う
ふと気づく窓の外
自分を持て余す昼休み
窓際の席三番目
◆自我だらけの空間、そして途切れなく顔を出す自我の時間。中学校の教室は、今でもそんな風景でいっぱいのだろうか。窓の外から何気なく見えた景色に心奪われたとき、持て余している自分が少し滑稽に見えたとき、出口の光が遠くに見えることもある。
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