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  • 執筆者の写真晴夫 沼澤

昭和38年(1963) を紐解く

  「羽後のれきし」8回目は昭和38年を取り上げます。

 

 1月号(69号)に、実に興味深い記事がありました。

 「廃れゆく旧小正月行事」と題された文章は西馬音内の柴田平助氏が書いたものでした。

 近年コロナ禍で実施できなかった時もありましたが、西馬音内地区には1月15日の夜に「みかんまき」という伝統行事があります。

 以前、知り合いの方からのその由来について訊かれ、少し資料にあたったのですが、見つけることができませんでした。この原稿にまさしくそのことが書かれてあり、驚きました。

 



 柴田氏の文章によると、この「みかんまき」は明治末期に始められたと考えていいでしょう。「タテ」なるものを見てみたかったと思います。

 

 

 同じく1月号に、町の概観が1ページにわたって掲載されました。

 合併したときからの人口の推移、年齢段階人口が興味深いです。



 2万9千人台の人口が、昭和35年だけ2万7千になっていることや、若者の流出が激しく15歳以上の人口に影響を及ぼしていることなど、まさに高度成長期の典型的なデータに見えます。

 

 

 学童期の子どもの多かった時代。

 地域の学校を支える力は、こんな形でも発揮されました。3月号の記事です。

 

 「管内(郡市内で)小中学校で初の完全給食校」という響きが誇らしいです。

 どんな献立、どんな味だったのでしょうか。

 

 

 さて、この年は「西馬音内簡易水道事業給水」「三輪保育所開設」「羽後高校高瀬分校校舎竣工」など、大きな躍進もあった年ですが、12月号の最終面は次のような記事で締めくくられていました。


 作況の不振が続いているなかで、翌年の東京オリンピックを控えて、都市部の労働需要が高まり、出稼ぎ者が増えていく真っ只中でもあったわけです。


 

 昭和の明暗がくっきりとした時期と言ってもいいでしょうか。


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