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  • 執筆者の写真晴夫 沼澤

昭和37年(1962) を紐解く

 昭和37年を見ていきましょう。内容もバラエティに富んできました。


 1月号(57号)は、干支である寅年生まれの方々の抱負や各界から町政に望む声、新しく導入にしたモニターの方々からの賀状、小学生の目標など、年頭にふさわしい文章がたくさんならんでいました。

 その真ん中に配置された囲みには、田口恭雄氏の書かれた詩(絵は小坂太郎氏)が寄せられていました。



 毎月の紙面全体を通して、産業、環境衛生の話題とともに税金や国民年金のことなどが継続されています。

 経済的な関心が高まってきたことは言うまでもないことですが、依然として苦しい状況も続いていたようです。


 産業のなかで数年目立つ記事として「葉たばこ」の生産がありました。


 昭和40年代までずいぶんと大規模に展開されていたと、収穫期に学校の体育館を使って作業が行われていたことを思い出しました。



 7月号に計画が示された「ヘリコプターによる水田妨害虫防除」は、9月号でその成果について談話のような形でまとめられていました。(リコプターの誤植がカワイイ)



 まさに近代化を象徴する事業だったわけで、記事中にもありましたが、「曲がり角」を迎えた農業について、当時の方々はどんな思いを抱いていたのでしょうか。

 この年には西馬音内川の改修工事が進み、今泉橋の永久橋架け替えが目前に迫ったという記事もありました。



 10月号から翌年の秋まで、続いたコーナーに「中学校紹介」があります。

この時、町内には8つの中学校があり、その現状について知ってもらおうという企画でした。

 発端には、その横にある「中学校統合問題」がありました。

 それから羽後中学校ができるまで様々な議論が重なったわけですが、着手から十数年という歴史の重みを感じました。


 紹介は、一回目が新成中学校。その後「田代」「明治」「西馬音内」「仙道」「三輪」「軽井沢」と続き、元西中学校が締めくくりとなっていました。


 校数の多かった羽後町ならではの企画とも言えるでしょう。

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