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執筆者の写真晴夫 沼澤

昭和35年(1960) を紐解く

 昭和35年の広報を取り上げます。


 西暦で1960年となり、国や県の動きも活発化していく様子がうかがえます。


 1月号(34号)は、例年の町長・議長挨拶に加え、「昭和丗五年に想う」と題されて各団体から声が寄せられていました。

 「西馬音内小学校長」「公民館連絡協議会会長」「連合青年会長」「消防団長」の方々が並んでいます。


 町が合併して5年経過し、時代の進み方が急となる60年代初頭の空気を、それぞれの熱い文章から感じ取ることができました。



 4月号(37号)に「八郎潟干拓事業」と「海外移住」の記事が大きく取り上げられています。

 これらの話題は、広報創刊初年度から随時載せられていて、当時の町の人口動態、それに伴う就業に関しする一つの方向を示しているように思いました。


 NHKBSで「金色の海」と題されたドラマが、数年前放映されました。

 また、時折ですが海外移住者のその後を伝える番組などを目にすることがあります。

 この羽後町にもきっと、同じような進路を求めた方々がいたはずです。

 長い時間が過ぎたと改めて思わされる記事です。



 9月号(42号)に、こんなスナップが載っていました。



 この年が、おそらく本町の歴史ある住民運動会の最初になるのではないでしょうか。

 「リエクレーシヨン」(今だとレクリェーションでしょう)という語が登場し、ほんの少しだけ余裕も見えてきたかという気もします。



 この年は、4月町議選、6月農業委員一般選挙、そして11月衆議院選挙と続きました。 それに関する記事も多く、投票の呼びかけなどとともに、11月号(44号)にこんなコラム風の内容もありました。


 ちょっと洒落ているなと感心しました。

 こうしたウィットにとんだ話などは、現在はあまり載らなくなりました。その意味では余裕がなくなっているのでしょうかね。

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