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執筆者の写真晴夫 沼澤

昭和32年(1957) を紐解く

 第2号から第9号まで、つまり昭和32年分を見ていきたいと思います。


 第2号には、赤十字運動、職員配置、サイロ・堆肥盤設置などの話題がありました。

 続いての第3号では、わずかの紙幅でしたが目を惹かれる記事がありました。


「西馬音内本町通り 舗装道路完成」です。


 記事には「羽後町では始めて(ママ)の舗装道路が出現したわけです」と書かれており、「延長九十五米(メートル)」という規模が載っていました。現在の幹線道路全舗装もそこからスタートしたわけです。


 第4号には第一面に町議会の質問や農業委員選挙のことがありました。第2面には次のような見出しがあり、読み入ってしまいました。



 記事は「しかし貧しい私達の生活」という観点で結ばれ、所得や消費生活、寿命などの生活水準向上を謳う方向になっていました。

 昭和29年調べで県の平均寿命が「女65才 男60才(全国 女68才男64才)」という点が最後に示されていました。


 この4号から5,6号と続けて、「羽後町の風物」というコーナーが設けられていました。



 写真は「其の一」の石馬子です。「春秋の間には参詣者の絶える日がない」と、当時の様子が語られていました。

 ちなみに、そのコーナーでは続けて「西馬音内盆踊」「仙道番楽」が紹介されています。


 第2号から昭和32年の最後までを通読して印象に残るのは、産業振興、生活水準向上を目指す町の姿とともに、中学を卒業して就職のために町を離れた方々の記事です。

 12月発行の第9号は、「軌道にのる就耺補導」「職場慰問視察記」で1ページ全面が使われているほどでした。

 高度成長へ向かう時期に故郷を離れ、都会や全国各地に向かった方々と、それを取り巻く学校関係者の様子が想像できました。


 さて、最後にちょっと笑ってしまった囲み記事の写真を一つ。


 

 昭和32年10月。第7号でした。

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