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執筆者の写真晴夫 沼澤

「羽後町の伝説」を読む(その4)

 第四回は「獅子争い」という話です。

 

 これは、小坂太郎氏の文章。短いですので全文掲載としてみます。


 

 西馬音内の御嶽神社の獅子は、伝説によればナンバン獅子といわれ、運慶の作といわれていた。

 さて昔から、獅子舞には縄ばりがあった。獅子を舞う人々は小松の部落から代々出て、元気のよい者が多かった。御嶽神社の神官・沼沢家の縄ばりは、遠く仙北の六郷や金沢あたりまであったという。

 自分の縄ばりによその獅子舞いが入り込んでくると、勢力争いが起こり各地で喧嘩があった。こうして獅子舞いは、勇ましい連中によって行われていた。

 西馬音内では戦前里芋を植えなかったのは、この争いのとき、里芋畑で芋にすべって転んで負けたためといわれる。また田代では、柿の木の枝に引っかかって負けたために、柿の木を植えなかったといわれている。

 



 今は各家々を廻ることはなくなったようですが、昔は獅子舞いが自分の家に来ることを、少しおそれを持ちながら、また神聖なこととして受け止めていた気がします。歴史的には、そうした神事的な催しにも勢力争いがあったのは当然なのかもしれません。

 里芋の件は幼い頃聞いたような記憶がありました。各地にそうした逸話が残っているのでしょうね。

 

 

 さて、今日の文章にはビッグネームが登場しました。

「運慶」です。歴史に名を残す人物です。数年前の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」にも主人公と関わりを持つ人物として描かれていましたね。


 運慶・快慶らを生み出した仏師の流派「慶派」。慶派仏師、特に勃興期の平安時代末から鎌倉時代中頃まで活躍したと言われています。

 それにしても、もし本当に「運慶・作」だったら凄いことですね。

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